少し昔語りをしようと思う。

 

十一月、そろそろ布団も恋しくなり気のゆるみと共に朝が弱くなるころだ。

男子大学生の朝は遅い。今日も時間に追われながらもう新鮮さもありがたみもなくなった正門を抜ける。正門の奥には看板が立ち並び、それぞれが己の伝えたい何かを訴えている。普段なら通り過ぎるそれに目を奪われて私は立ち止まった。男子大学生が目を光らせるものなど限られている。それは単位であるかお金であるか、あるいは―――エロスだ。真っ暗な背景に踊るやわらかな桃色の文字はネオンライト。非常に淫靡で、リズミカルで、そして不可解な題名は、私の脳内にじりじりと焼き付いて決して離れなかった。

  日が暮れて講義棟の勉強から、あるいは生協前で踊るイカした大学生から逃げるようにキャンパスの中心から外へ外へと進んだ先にその会場はあった。建物の入口に長机が設置されており、2,3人ほどの学生がその向こうに立っている。ここが受付というわけだ。受付はあるがここの演劇は基本無料だ。入場料を取られるわけではない。記名だけを済ませて建物の中へ入る。廊下はいささか小綺麗な印象を受けるが、別段広いわけでも特別な装飾がなされているわけでもない。入口の長机も然ることながら一目ここに劇場という特別感はない、あくまで大学のありふれた建物、ありふれた設備、そしてありふれたサークル活動、そんな風に思われた。

案内されて入った部屋は薄暗い。あてがわれた座席は少し窮屈に思えるほど。こぢんまりと見える小さな部屋の中で多くの観客が上演を待ち焦がれていた。彼らの中には友達同士と思しきグループや女性客、様々な客層が見られる。エロスに導かれてこそこそやってきた私は部屋の暗闇に隠しながら羞恥の色を浮かべた。

 上演が始まる。中空の四角い舞台の対角線に男女の姿が浮かぶ。音楽は小さな劇場で反響し、客席全体を余すことなく包み込み、そして物語の中へと取り込んでいく。鮮やかな照明は役者ほどに物を言い、客席に感情を訴えかけてくる。音と光の中で男女は通路の辺々を行き来し、そして空想と現実を行き来し、物語はころころと進んでいく。内容について詳細に語るのも野暮なものだろう。圧巻だった。

私は舐めていたのだ。私の高校では3年生は全員文化祭で演劇をやる文化があった。そして私も高校最後の年には参加して、作演としてあれこれ考え、取りまとめ、素人ながらに二年分文化祭で見てきた知見を活用して物を作り上げた。それゆえに私はここでの演劇を見るまでは学生の演劇などそのクラスのものだと勝手に思っていた。だが、目の前で行われたこれは違う。この小さな空間で繰り広げられた演劇は遊びではない。これは学生がやっているだけの、ただのプロの演劇だ。金を取らないだけの、プロの演劇だ。

少し余韻を楽しんでから会場を出ようと思ったが、いくら待てども一向に興奮は収まらない、気持ちが高ぶったまま私は部屋を出て通路に出た。上演前ただの汎用通路だったはずのそこは極上のロビーだった。演者や裏方のスタッフたちが並び、みな晴れやかな顔で客を見送っている。このやりきったという笑顔がいかに尊いことか。そしてつい先ほど私の胸を高鳴らせた人たちが目の前にいる状況のなんと尊いことか。

「ありがとうございました!」

私にもとび切り明るい声がかかった。それは貴方が言う言葉ではない。私が言わせてもらう言葉だ。この感動をどう伝えたらよいのだろう。ここまで演技や舞台装置・演出を極めてくれたお礼を、素敵な物語に出会わせてくれたお礼を、この通路を抜ける一瞬のうちで伝える言葉を私は知らない。ふと周りにも目をやると劇団員のうちの何名かが缶を持っていた。この演劇に入場料金はかからない。基本無料というこのシステムに感謝をして私はお財布に手をかけた。

建物の外に出るともう辺りは真っ暗で来場客以外に人気もない。十一月の夜深くの冷え切った空気は未だ余韻に浮かされた私にはちょうどよかった。この熱が冷めるまであと少し作品の余韻に浸っていよう、そう思った。

 

それからこの小さな空間で繰り広げられる演劇には何度も足を運んだ。この小さな劇場で上演している劇団は1つではない。先ほどの演劇をやっていたサークルは「劇団九九」というらしいが、この会場では他にもいくつかの劇団が日程をずらしながら定期的に公演を行っている。私も「Theatre VENUS」、「劇工場レインボー」、「劇団中学七年生」、「わくわく家庭崩壊」あたりの劇団がやっている公演に訪れた。いくつか公演を見ていくと、劇団ごとの作風がわかってきたり、演者の顔を覚えてきたりする。この小さな部屋と狭い通路といった団員との距離の近さも相まって、不思議と親近感がどんどん湧いてきてしまうものだった。

シナリオも多様だった。ある時はテーマパークで爆笑し、またある時はプロパガンダやカルトについて真剣に考えさせられ、ある時は昭和にタイムスリップしたり、別のある時は文字の失われた世界に飛ばされたりもした。作品によって私の理解度の差やジャンルの得手不得手こそあれど、ここに来ると決まって気持ちも財布も軽くなるものであった。三千円で生活しなければいけないときに二千円の菓子折りを持ち込んだ時は流石にどうかしていたが、それだけのことをさせる魅力が、それに見合う体験がここには転がっていた。私がこのキャンパスを出るまで最もお気に入りの場所だった。

 

そんな贅沢を詰め込んだ空間がどうやら昨今の騒動の煽りを受けているらしい。これだけの素晴らしい体験が味わえない事態なのだとしたら非常に惜しいことだ。もしまた足が運べるようになったら、ぜひ通える距離にいるうちに一度足を運んでほしい。確かに名物のラーメン屋もいい、駅前の隠れ家カフェもいい、そういったあなたの在学時に知らなきゃ後悔するスポットリストにここを加えてみてほしい。合わなければ1回でやめればいい。なにせ入場に金はかからない。そして最後に繰り返す―――ここの演劇は無料だ。だが、金は持っていけ、後悔しないために。





※本作は事実を元にしたフィクションです。
※団体名など作中一部に改変を加えております。